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フェリブリッジの戦い(Battle of Ferrybridge)は、薔薇戦争中の1461年3月28日、タウトンの戦いの前の小規模な局地戦としてヨーク派とランカスター派が争った戦い。 自分自身を国王であると公布した後、ヨーク派のエドワード4世は兵を集結させヨークシャーのフェリブリッジを流れるエア川(Aire River)のランカスター派の拠点に向け北進した。 3月27日、先頭を進むウォリック伯はフェリブリッジで、川の両岸を板でつないで即席の橋(それまであった橋はランカスター派が破壊していた)を作り、渡河を強行した。 渡河の過程で彼は、凍えるほどの冬の水と、対岸からランカスター派のゲリラ部隊が放つ弓矢の雨に、多くの部下を失った。 なんとか渡河したがランカスター派を視認できぬ状態のまま、ウォリック伯は野営地を川の北岸に設置し部下に橋を修繕させた。 次の日早朝、ヨーク派はクリフォード卿とネヴィル卿ジョン(ウォリック伯の大伯父)指揮下のランカスター派の奇襲攻撃を受けた。 完全に不意を突かれて混乱状態のウォリック伯の軍隊は、多くの損失を受けた。 野営地にいたウォリック伯の副官のフィッツウォルーター卿(Lord FitzWalter)は、兵を立て直そうとしつつも致命傷を負った(彼はこの1週間後に死ぬ)。また、ウォリック伯の異母兄弟であるソールズベリーの庶子は殺され、ウォリック伯自身も退却の途中で足に矢を受けて負傷してしまった。フランスの年代記編者 ジーン・ドゥ・ワーリン(Jean de Waurin)の記録によると、約3,000人の兵がこの戦いで戦死したとされる。 この戦闘の後エドワード4世のヨーク派主力軍がワラント し、エドワード4世とウォリック伯は橋に戻りその惨状を目のあたりにした。 ウォリック伯は彼の叔父、フォーコンバーグ卿とヨーク派装甲部隊を派遣して、上流の浅瀬を渡ってクリフォード卿を追いかけさせた。 フォーコンバーグ卿はランカスター派主力軍の見える所までクリフォード卿を追いかけ、凄まじい戦闘の後にクリフォード卿を打ち負かした。クリフォード卿はのどに矢を受けて戦死した。何故かのどを防護するはずの兜は脱いでいた。 ブロア・ヒースの戦い(Battle of Blore Heath)は、薔薇戦争の最初の主要な戦いで、1459年9月23日にイングランドの西ミッドランズ(The Midlands)地域スタッフォードシャーのブロア・ヒースで行われた。 1455年のセント・オールバーンズの戦いの後、落ち着かない平和がイギリスで続いていた。ランカスター家とヨーク家の間の和解への試みがギリギリの平和を維持していたのだ。だが、双方とも徐々に用心深くなり、武装を進めていった。マーガレット王妃は彼女を支持する貴族達に銀のくりっく365 の飾りを配って、国王(ヘンリー6世)に対する支援を訴え続けた。(実際ヨーク公リチャードの下には、国王への反乱は厳罰となるにもかかわらず 、多くの支持者が集まっていた。) ヨークシャー(Yorkshire)のミドルハム城に本拠を置くヨーク派(司令官:ソールズベリー伯リチャード)は、シュロップシャー(Shropshire)のラドロー城のヨーク派主要軍と連携する必要があった。そのためにソールズベリー伯がミッドランズ北東部のミドルハム城からミッドランズ南西部のラドロー城に向けて行進した時、マーガレット王妃はオードリー卿ジェームス・トゥチェット(James Touchet, Lord Audley )にそれを捕らえるよう命じた。 オードリー卿はブロア・ヒースの荒野でこれを待ち伏せる事にし、1459年9月23日朝、ソールズベリー伯の進軍に対面する形で、ブロア・ヒースの南西の大きな生垣の後ろに防御的な陣を張った。 ヨーク派の偵察隊は生垣の頂上に見えるランカスター家の旗を見て、すぐにソールズベリー伯に急を報告した。オードリー卿の軍が森林地帯から出現した時、ソールズベリー伯は自分達に倍する敵軍勢が待ち構えていた事を悟り、すぐさまランカスター軍の弓の射程圏外に出るよう指示した。彼は右側面の兵を守るために、補給用の荷馬車を密集させて右翼を保護し、円形のフォーメーションをとった。総崩れの心配から、ヨーク派軍人はこの場所を死に場所と覚悟して、地面にキスしたとも伝えられている。 両軍は約300mの距離を隔てて対峙し、広くて流れの急な小川が間を流れていた。小川は見るからにオードリー卿の進軍を阻んでいた。 最初、双方の指揮官は流血を避けるために停戦の討議を行い、多くの中世の戦いと同様に、両軍の弓兵同士の大弓での決闘によって勝敗を決める事になった。だが、ブロア・ヒースでの両軍の間の距離のため、この方法は決定的ではないと分かった。 そこでソールズベリー伯は、小川を渡っての攻撃が外為 的行為であると知っていたので、敵の方から彼を攻撃するよう促す策略を用いることにした。彼は自身の軍の中央部を、ランカスター派が「敵が撤退している」と信じ込むほどに後退させた。これを見たランカスター派は、装甲部隊の渡河による突撃に着手した。確実に渡り始めたところでソールズベリー伯は兵を戻し、渡河しかけた時を見計らってランカスター派を捕らえるよう命じた。この渡河突撃はオードリー卿の本来企図した命令ではなかった可能性があるが、ソールズベリー伯にとって非常に有利な、両軍の戦力差を均衡にする効果はあった。この突撃によってランカスター派に多くの死傷者が出た。 ランカスター派は引き下がって、そして再び(恐らく死傷者を救おうと試みて)襲撃を行った。この2度目の攻撃では、さらに多くのランカスター派が小川を渡ったので、ヨーク派はさらに大きな戦果を得る事が出来た。この激しい戦いは、オードリー卿自身が(恐らくエレスメア近くのストックスでロジャー・キーナストンによって)戦死した事で終止符を打たれた。 オードリーの死によってランカスター派の指揮は、約4,000人の兵を徒歩で指揮していた副司令官のダドリー卿ジョン・サットン(John Sutton, 1st Baron Dudley)に委ねられた。攻撃の失敗もあって、約500人のランカスター派の兵がヨーク派に合流し、味方を攻撃し始めた。残っているランカスター派の抵抗も失敗し、ヨーク派は敵を殲滅するためにただ進みさえすればよかった。 この殲滅戦は、外為 が田舎道を夜通し逃げる敵を追いかけるという形で夜通し行われた。 ソールズベリー伯はランカスター派増援隊が近くにいる事を心配していたので、ラドローへの進軍を望んでいた。そのため彼は追撃を中止し、ドライトンの丘の中腹で野営をした。(後にこの場所には彼の名前が付けられる事になる。)兵を先に進めたいもののランカスター派の増援部隊の襲撃も避けたいソールズベリー伯は、不動産投資 がブロア・ヒースの上に未だ残留しているとランカスター派に見せかけるために、地元の修道士を雇って定期的に大砲を発射させた。 この戦闘で少なくとも3,000人が死亡し、ランカスター派の死亡者は2,000人以上と言われる。地元の言い伝えによれば、この小川ではその後3日間血が流れ続けたという。 伝説によると、オードリー卿の敗北が決定的になる前、マーガレット王妃はこの戦闘を近くのマクルストーン村(Mucklestone)の教会から見ていたと伝えられている。ランカスター家の敗北が決定的になった時、彼女は彼女の逃避を隠すためにウィリアム・スケルホーン(William Skelhorn)という鍛冶屋を雇って、彼女の馬の蹄鉄を裏返しにさせたと言われる。この鍛冶屋の金床は、この時の記念にマクルストーンの教会の墓地に置かれている。 この戦いの後、オードリー卿が死んだ場所を表す十字架がブロア・ヒースに立てられた。それは1765年に石の十字架に取り替えられた。この十字架は、今もブロア・ヒースに立っている。オードリー卿の遺体は、ダービシャーのダーレイ・アビィ村(Darley Abbey)に埋葬された。 ブロア・ヒースでは、毎年9月にこの戦いの記念日が制定されている。ヘクサムの戦い(Battle of Hexham)(1464年5月15日)は薔薇戦争中、エドワード4世の治世の早い時期に行われた戦いで、北イングランドにおける主なランカスター派の抵抗の終焉をもたらした戦いであった。 戦闘はノーサンバランドのヘクサム(Hexham)の町の近くで行なわれた。後にモンターギュ侯となるジョン・ネヴィルは、3,000-4,000という、軍隊というにはつつましい程の兵を指揮して、反逆者ランカスター派を打ち負かした。 サマセット公ヘンリー・ボーフォートを含む反乱の指導者の大部分が捕えられて、処刑された。 だがヘンリー6世は、今回はなんとか無事に逃げ延び(彼はこれまでの人生の中で、3回戦闘中に捕獲されている)、北へ落ち延びていった。 ランカスター派内部の求心力の低下に伴い、ただ少数の城だけが反逆者の手元に残っている、という状態であった。残るそれらの城がその年遅くに落ちた後、ウォリック伯が1469年にランカスター派に鞍替えするまで、エドワード4世にはもはや大した障害はなかった。 ヘッジレイ・ムーアの戦いの後、ランカスター派はヨーク派が1463年にスコットランドとの和平交渉を完了させるのを妨げ損ねた。 そしてまもなく、ヨーク派とスコットランドとの和平は彼らの北の作戦基地を脅かすという事に気づいた。 そこでランカスター派は、エドワード4世の巨大な軍がレスターに集結して反乱鎮圧のために北進を開始する前に、国内のランカスター派支援を集めるための軍事行動を開始することにした。 ランカスター派軍はサマセット公の指揮の下、1464年4月下旬にノーサンバランドを通過移動しつつ、ランカスター派駐屯地から支援を集め続け、5月初旬にはヘキサム近くに駐屯した。 エドワード4世の前衛を預かるジョン・ネヴィル配下のヨーク派軍は北へと疾走し、1464年5月14日、両軍はヘキサムの町の外で衝突した。 詳細な戦場の位置、編成と兵数と出来事等については不明であるが、しかしこの戦闘は比較的無血であったと思われる。 ランカスター派の陣は、ヘキサムのやや南、デビルズ・ウォーター(Devil's Water)に架かるリネルズ橋(Linnels Bridge)の近くにあった。 ヨーク派は5月12,13日の夜にタイン川(Tyne)の南の土手を越えて、14日の朝にはヘキサムを攻撃可能な位置に陣取っていた。 恐らくヨーク派の進軍速度のあまりの速さにランカスター派の偵察部隊からの警鐘が遅れて、ランカスター派には充分な戦闘準備の時間はなかった。 サマセット公は彼の軍隊をリネルズ橋の近くまで急いで移動させ、横並びの3軍に分かれるよう再編成した。 彼としては、ヨーク派がヘキサムに入る前に、何とかして街の外での戦闘に持ち込みたかった。 ランカスター派より早く布陣の完了していたヨーク派は、ランカスター派よりもやや優位な高い丘に陣取っていて、そこからランカスター派の陣に突撃した。 ヨーク派の前進を見るや否や、ルーシュ卿(Lord Roos)によって指揮されたランカスター派の中央部隊は向きを変えて、衝突もしないうちに橋を渡ってヘキサムの中に逃げ込んでしまった。  ランカスター派の士気は崩壊し、若干の残存兵も名ばかりの抵抗の後に川に追い落とされた。この日の死傷者の大半は、この川で溺死したか、川から上がってヘキサムの街に向かって土手を登る最中に殺された。 しかし大部分は、ただ進軍するだけのヨーク派に捕獲され、捕虜にされた。 この戦いの終わった夜、ジョン・ネヴィルは30人のランカスター派をヘキサムで処刑した。 この中にはサマセット公やルース卿も含まれていた。ウィリアム・テイルボーイズ卿(Sir William Tailboys)は、ヘンリーの軍資金の2000ポンドとともに、すぐに捕えられた。 イングランド北部でのランカスター派の抵抗は、その指導者を失った事で崩壊し、そしてヘンリー6世がランカシャーのクリスロー(Clitheroe)で捕えられたとき、反乱は実質的にその幕を閉じた。 比較的平和な期間はこの後、1469年にウォリック伯がランカスター派支持に乗り換えるまで続く事になる。